リーゼンバーグ教授 ブラックジャック

リーゼンバーグ教授 ブラックジャック

 ヴィルヘルム1世の視察 国王が野営地の巡幸を行っていた頃、普参謀本部は大急ぎで膨大な数に上る捕虜の扱いをどうするのか決定します

 既に会戦中、合計21,000名の捕虜を獲ていた独軍中、普近衛軍団は9,000名、第12「S」軍団は5,000名を1日深夜にドゥジーに向けて徒歩で護送しており、独第三軍が獲た捕虜はドンシュリー付近に集めていました

 フォン・ポドビールスキー中将は、協約で決定しているセダン西のムーズ大湾曲部内を「一時収容所」とする方針と、僅か1日でセダン要塞を「空」にする決定を考慮しつつ、ほぼ徹夜で計画を作成し、2日早朝「捕虜の護送と給養に関する規定」を全軍に発します

 これによると、仏軍全捕虜を1組2,000名に組織し、マース軍が担当する捕虜はストゥネーからエテン(ベルダンの東北東19キロ)へ、第三軍が担当する捕虜はビュザンシーからクレルモン(=アン=アルゴンヌ)、サン=ミエルを経由してポンタ=ムッソンへそれぞれ護送し、この「中継点」でカール王子率いる「メッス攻囲軍」に引き渡し、以降独仏国境までカール王子の責任で護送することとされました

あなたも好きかも:茨城県 パチンコ 営業時間
 また、「同時・同地点に1万人以上の捕虜を留めない」こと、「士官の待遇」に関すること、「上記2本の輸送線に関して沿道に給養の特別例外規定」を設けることなどが定められました

 先の「降伏協約」には付則としてセダン開城後、後方へ護送されるまでの間に必要となる捕虜の給養は全て仏側が賄うこととなっており、このため糧食の一大集積地であるメジエール要塞からドンシュリーまで、アルデンヌ鉄道を使用して糧食が送られることとなります

 一時収容される「大湾曲部」内の捕虜の監視はB第1軍団と普第11軍団が担当し、両軍団は戦利品の収容も命じられました

両軍団はこの任務の間B軍のフォン・デア・タン大将が統括することに決まります

 この内、第11軍団の1個連隊は、9月3日に仏軍が全員退去した後のセダン要塞を警備することを命じられました

 軍旗を燃す仏軍※セダン要塞まで持ち込まれた殆どの軍旗は普軍の手に渡るよりは、と燃やされました

 セダン会戦による独軍全体の損害は、合計すると士官460名、下士官兵8,500名(詳細は欄外に記します)となり、仏軍に関しては様々な説*がありますが独側の主張に従えば以下の通りとなります

※仏シャロン軍の損害○会戦中によるもの・戦死 3,000名・負傷 14,000名・捕虜 21,000名○セダン要塞開城で捕虜となった者・83,000名○中立国ベルギーに逃亡し武装解除・抑留された者・3,000名 合計 124,000名*ヴィンファン将軍は戦後、「会戦中の死傷者数は25,000名、シャロン軍の総兵力は70,000名程度だった」と記していますが、独軍が捕虜を集合させたイジュで数えた員数だけでも83,000名となっており、信用出来ません